愚かで愚かで愛しい



 「親父、ちょっとええですか」
 その呼びかけに、事務所のソファでふんぞり返っていた男が振り返る。
 親父、と呼ばれた男は、明らかに彼よりも年上のその相手に、「何や、どないしたんや」と返した。
 その男――郷田龍司は、暢気に欠伸をして、テーブルの上にあった湯呑みに手を伸ばした。やや温くなった緑茶を喉に流し込み、空咳を一、二度繰り返す。若干喉に引っかかるものを感じ、風邪かと顔を顰めた。
 その室内には、壁際に数人の組員が立ち、組長である龍司の一挙手一投足を見つめている。組長の命令を迅速に対応出来るように待ち構えていた。
 「さっきウチのシマで喧嘩があったらしいんですが…」
 「何や、喧嘩ぐらい…」
 「いや、それが……」
 そこまで言った幹部らしき男は、その後の言葉を続けるのにやや声のトーンを落とした。龍司の耳元に近付くと、「相手はあの桐生らしいんですわ」と。口早にそう言った。
 「何やて?……桐生が…」
 それまでの表情が一変する。一瞬にして厳しくなったその目つきに、室内の全員が緊張した。
 龍司は手にした湯呑みを乱暴な所作でテーブルに戻した。まるで彼の心情が現れているかのような荒々しさ。彼を取り巻く空気が、ビリビリと震えていた。
 「……桐生…」
 その名前を聞くと、どうにも落ち着かなくなる。それまで穏やかだった胸中が、連動するようにざわりと騒いだ。
 実際に会う以前から、その名前は知っていた。
 関西の龍――そう呼ばれるようになった、発端とも言うべき双対を成す相手。自分が関西なら、相手は関東。何かにつけて比べられることに、不本意ながらも意識せずにはおれなくて。
 そして実際に対峙した時。
 身体中を走り抜けたあの衝撃は今でも忘れない。
 物心ついた頃から極道として生きてきた。様々な極道者と出会い見てきた経験上、そんじょそこらの相手じゃ驚きはしない。そう自負していた。だがそんな自分でも、桐生を前にするとハッと息を呑んだ。それほど強烈な印象として彼の中に残っていたのだ…桐生一馬という男は。
 拳を交える度、視線を合わせる度、彼の存在がどんどん、どんどん、大きくなっていくのを感じた。実に不思議な感覚だった。と同時に、何処か嬉しくも思えた。
 こんなにも自分を奮い立たせる相手に出会えた。そのことは、龍司の人生において価値あることだったに違いない。龍司をこのような気持ちにさせた人間は、今まで何人も居なかったからだ。否、桐生が初めてだったのかも知れない。
 そんな彼が今、自分と同じ土地にいる。直ぐ近くにいる。そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。
 「…俺は行くで」
 人の上に立つ人間になったのだから、行動は慎重にしなくてはならない。死んだ父親からそう教えられていたが、桐生を前にすれば、そんな言葉もどうでもいいような些末なものに成り下がる。桐生はそんな男だった。こうも簡単に自分を動かしてしまう存在なのだ。龍司はそのことをはっきりと自覚していた。
 彼は見えない力に突き動かされるかのように立ち上がると、そのまま部屋の出口へと向かった。行かなくてはならない、そんな想いが彼の脳裏にじわりと拡がり覆いつくした。
 「親父?」
 慌てて後を追おうとする幹部に、龍司はスッと右手を上げその歩みを止めた。
 「お前らはええ。留守番しとけ」
 「いや、せやかて親父…」
 組長が独りで出向くなんて前代未聞だ。何かあったら組の存亡にかかわる。部下は是が非でも供に着こうとした。
 けれど、龍司は許さなかった。
 「運転手だけ、連れて行く。後はええ。大丈夫や」
 心配は無用だと再び口にし、有無を言わさない視線で組員達をねじ伏せた。もうそうなれば、彼らは従うしかない。親が白いものでも「黒だ」と言えば、彼らには黒なのだ。そんな世界において、龍司の言葉は絶対であった。
 躾の行き届いた部下らを残し、龍司は運転手役の下っ端を一人連れ出すと、黒塗りのベンツに乗り込みその場所へと向かった。




*続きは本編にて…。

密室だす。