その先にあるものは
「……ハァ……過ぎちまった…」
急いで帰ってきたつもりが、いつしか日付は変わっていた。常夜灯の明かりの下、腕時計でそれを確認した桐生は、浅い溜め息をつき首をコキリと鳴らした。またやってしまった…と呟く。
あんまり遅くなるようなら先に寝ておく様に――いつもそう言い聞かせているのに、優しい彼女は眠い目を擦りながら待っていることが多い。
『眠かっただろう、遥?』
『ううん、そんなことないよ、おじさん』
宿題をしていただの、見たいテレビがあったからだのと、取って付けた言い訳を述べるものの、ただいまと帰ってきた桐生を見た瞬間の彼女の表情を見ると、明らかに桐生の帰りを待ち侘びていた様子で。その姿の健気なことといったら…。それを見るといつもいつも胸がキュッと締め付けられる。だから「早く帰らなければ…」と一応頑張ってみるのだけれど…。
今日も惨敗。最近、負けっぱなしだ。
きっと今夜も、玄関を開けると遥が眠い目を擦りながら出てくるに違いない。
桐生は「あぁ…」と天を仰いだ。
見てくれは子供なのに、中身はよくできた大人とそう大差ない。桐生はいつも思っていた。時折いい大人である自分が、幼い遥に助けられていることが度々なのだ。照れ臭いながらも嬉しく思う反面、それじゃだめだろうと呆れるのも事実。どっちが大人でどっちが子供なのか…洒落にならないではないか。溜め息も出るというものだ。
「……ただいま………」
深呼吸をして、玄関をそっと開ける。おかえりと、幼い少女が廊下を駆けてくる姿を想像していた桐生は、しかし予想に反して誰の姿も無いことに微かな違和感を覚えた。
廊下に明かりは灯っているものの、誰の姿も無い…おかしい。
桐生はそろりと中に入り、ふと揃えられた靴に視線を向けた。真っ先に目に飛び込んできたのは、可愛らしい赤い靴。先日桐生が買ってやったもので、遥がここ最近気に入ってずっと履いているものだ。その横には自分の靴、サンダル、と見慣れた履物が並んでいたが、一番端に見慣れぬ靴が揃えられているのに気付いた。
「………ん?」
明らかに自分のものではない。だが、何処かで見たような記憶もあってどうも引っかかる。桐生ははてと首を傾げた。たかが靴なんだけれど、どうにも頭の中のモヤモヤが晴れなくて……ダメだ思い出せない。
と、そんな彼の視線の端に、また新たなる異物がフレームイン。廊下のど真ん中に陣取る、その明らかに違和感のある物体に、桐生は本格的におかしいぞと思い始めた。
そこに在ったのは、明らかに脱ぎ捨てたと思われるトレーナー。その先には、同じく…のジーパン、そして丸まった靴下、その先にも同じもの…。狭くて短い廊下に、所狭しと落ちている。
「…何だこれ…」
転々と落ちているその様子に、ふと以前遥が読んでいた童話の本を思い出す。帰り道が分るようにパン屑を落として歩いた兄妹が、お菓子の家に辿り着く話…だったっけなどと思いながら、その転がった物を一つ一つ拾い上げていく桐生。徐々に彼の表情が曇っていくのは気の所為などではない。その道程は、まっすぐに彼の部屋へと続いていたから…。
「……………」
ドアの前にも落ちているそれ。恐る恐る摘み上げると、それは男物の下着だった…黒い…ビキニタイプのヤツ…自分のものでは無い。
「………フゥーッ…」
彼は深々と息を吐き出す。自分のものではないが、靴同様コレも何となく見覚えがある…気がした。そう思うと、徐々に嫌な予感が込み上げてくる。こういう時の予感は、常に的中してしまう彼だった。もしそれが当たっているならば、この中にはアイツがいる…はずだ。
拾い上げた衣服を脇に抱え、桐生は勢いよくドアを開けた。
「おいっ!」
ズカズカと部屋の中央に進み出る。ベッドのすぐ前に来ると、その中に眠っている人物に手にした服を投げつけた。
「起きろっ!大吾っ!」
「…んぁっ!?」
桐生の怒声に、眠っていた男が目をあけた。寝ぼけたそれを何度か瞬き、のそりと上体を起こす。頭に自分の下着を載せたまま起き上がるという、何とも間抜けな姿を曝した彼は、桐生も幼い頃からよく知る青年…堂島大吾であった。
「起きろって言ってんだ。おいっ」
「あぁ…桐生さんか…おかえり」
「おかえりじゃねぇよ。なんでお前がここにいるんだ」
また半分寝ている大吾の頭を小突く。と、大吾は煩そうにその手を避けて大きな欠伸を一つ。その姿がどうにも馬鹿にしているようで、桐生の怒りに油を注いだ結果となった。
彼の怒りは倍増する。
「ふざけんなよ、大吾」と容赦ない拳が振り下ろされ、大吾は本格的に覚醒した。
「痛っ!……ふざけてねぇよ」
「……遥はどうした?」
「…おじさんと大事な話があるからもう寝てろって言ったら、大人しく寝ちまったよ」
その答えに、些かホッと胸を撫で下ろす。だが、この状況の悪さは変わらない。
「そうか……で、大事な話ってなんだ?………服脱いで待ってるような話か」
廊下の服が彼の物ならば、当然大吾は素っ裸だ。見ると、布団からはみ出た身体はやはり裸であった。首筋から肩、背中へと流れるラインが妙に艶かしい。素肌であるから尚のことだ。これがもっと違う状況ならば…と思わなくも無いが、如何せん今はそんな場合ではない。
寝ているとは言え、同じ屋根の下には遥だっているのだ。もし起きて来たらどうする。自分のベッドに素っ裸で寝ている大吾だなんて、何をどう説明すればいいのだ。焦りの所為か、額に嫌な汗が浮かぶ。
桐生は暢気に欠伸を連発する大吾を憎らしげに睨み付けた。東城会の行く末を任せた男は、どうにも緊張感に欠ける。自分と一緒の時は万事こんな調子だ。相手が桐生だから安心しきっているのだろうが、それでいいのかと甚だ疑問だった。
「あぁ…なんかさぁ…あんたの顔が見たくなってさ……服はめんどくせぇから先に…」
「めんどくせぇ?」
どうせ脱ぐだろうと暗に言われ、桐生の眉間にビシッと縦皺が刻まれる。こめかみには青筋も立つ。
――このクソガキが!
確かに、以前成り行きというかその場の勢いというか…とにかく一度大吾と寝たことはあるが、それがどうして"するのが当たり前"ということになってしまっているのか…。
恋人同士じゃあるまいし。
そもそも二人はそんな間柄ではない。そんな甘ったるい関係に発展しようとも思っていない。相手からそれとなく想いを告げられたわけでも無い。大体想われていても甚だ迷惑だ、などと考えながら「いや、待てよ」と、桐生は嫌な予感に眉を顰めた。好きだ愛してるなんてややこしい色恋問題とは限らないじゃないか、と。この男の場合…もっと単純な…。
「……溜まってんのか、大吾」
「…まぁ、そう言われると……そうかもな…」
「そうか」
生理現象…ね。それを解消するためにココに来たというわけか…。
桐生は深々と溜め息をつく。と同時に、自分が性欲処理の道具みたいに扱われたことに対する怒りがふつふつと湧き上がった。
どうやら、大吾を調子付かせてしまったようだ。
最初の一歩を間違えてしまった。いくら流されたとは言え、あれは浅はかだったと反省もしよう。自分にも非があったのだ。年上の自分がきっぱりと拒絶しておかなくてはならなかった…。今思えば後悔の嵐だ。終わったことを悔やんでも仕方ないのだけれど。
だが、この湧き上がる怒りは…どうしてくれよう。
「……………」
桐生は怒りに震える両手を何とか抑え、ふっとその表情を和らげた。優しい眼差し。その唇には微量に笑みさえ浮かぶ。遥にしか見せたことの無いような柔和な顔。見せられた大吾はドキリとしただろう。現に彼の顔はそんな桐生を見上げてポカンと呆けていた。
「……大吾…」
名前を呟き、その両の掌で大吾の頬をそっと包み込んだ。寝惚けた大吾を熱っぽい視線でじっと見つめる桐生。
「き、桐生さん…」
真剣な瞳につられ、大吾の表情もキリリと引き締まる。今にも近付いて来ようとする唇に視線が集中していた。
彼はこれから繰り広げられるであろう展開に、期待で胸も股間も膨らませているに違いない。そわそわと落ち着かない様子を見れば一発でわかった。
だが、そうは問屋が卸すものか。
桐生はそんな大吾に表情を一変させた。表情だけではない。優しく包み込んでいた掌をギュッと握り締めると、その拳で相手のこめかみをグリグリと締め付け始めたのだ。
「イタッ!ツゥ〜〜〜ッッッ!ちょっ、き、桐生さん!何すんだっ!」
「溜まってんなら、風俗にでも行けっ!」
締めにと、再びゴツンと拳を振り下ろす。ジダバタと暴れる大吾だったが、そのとどめにピタリとその動きが止まった。気持ちは悪戯っ子を叱り飛ばすような感じだ。遥でもこんな手間は掛からないのにと、三十の大吾を忌々しく睨みつける。全く…どうしようもない。
「ほらっ、帰れ!」
「ちょっ…!桐生さん」
ベッドの上に散らばった服をかき集め、頭を抱えている大吾にそれらを押し付けた桐生は、さっさと彼を部屋から追い出した。
バタンと勢いよくドアを閉め完全に拒絶する。それから暫くはドンドンとドアを叩き喚き散らされたが、それも次第に小さくなりいつしか静かになっていた…今までの騒ぎがウソのように。
誰もいなくなった部屋。シンとした静寂の中、桐生はポツリと呟いた。
「……勘弁しろよ…」
怒りの表情は、いつしか苦悩しているかのようなそれへと変わっていた。
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部屋を追い出された大吾は、閉じられたドアの前に座り込んでフゥと息をつく。背中を預けたドアは、何処か冷たい。拒絶された感が一層増すようで、やるせない気持ちに拍車が掛かった。
たった一枚の扉に隔てられているが、実際は二人の間には何十という扉がある。開いては閉じられ、また開いては閉じられる。延々と縮まらないその距離。
「………好きだってマジで言っても、困るのはアンタのくせに…」
一体いつになれば、本当のアンタに辿り着くのか…。
見つからない答えに苛立つ彼は、その拳を廊下の床に叩き付けた。
*ギャグで書いてたのに、いつしかシリアスな終わり方マジック…。
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