予想外な…
「温泉かぁ…」
ぽつりと呟いた彼の言葉に、桐生は「え?」と手にしたコップをテーブルの上に置いた。彼の口から予想外な単語が飛び出したので、それで少しばかり驚いたのだ。
ここは何処にでもある安い飲み屋のテーブル席。男二人が連れ立って飲むには何ら不自然さを感じない場所なのであるが、いかにもスジ者という男とそうでない男…ただし気難しそうな感はある…の組み合わせは何処か異色で、雑然とした店内であってもそのテーブルだけ何となく浮いて見えた。
気難しそうに見える男…伊達は、焼鳥の串に噛み付きながら、まだ前方にあるテレビに見入っていた。あまりそういったものに夢中になる方ではない彼だから、その様子は桐生の目になかなか新鮮に映る。テレビに夢中な伊達を、今度は桐生が夢中になって見つめてしまった。
そうやって、どれほど時間が経ったろう…。
「あ?…なんだ?」
伊達が桐生の視線に気付いた。
「いや、別に。…あんたがテレビなんかに夢中になるの初めて見たから」
「…そうか?」
そうだろうか…そうかもしれないな、などと呟く彼もまた珍しい。桐生は面白そうに目を細めて、テレビの方を指差した。
「温泉…」
「うん?」
「行きたいのか?」
伊達の顔が行きたいともそうでないとも取れるような微妙な表情で、桐生は思わず問い質した。
聞いてみたところで、「じゃあ行こうか」となる訳でもないから、気軽なものだ。自分と伊達が連れ立って温泉なんて…まずありえないだろう。少なくとも今まで一度だってそんなところに誘われたことも…誘ったこともなかった。二人が会って行くのはせいぜい飲み屋か…互いの家か…そんなところだ。改まって旅行なんて、行ったことも無い。行ってみたいと…思わなくも無いが…。
「あぁ、たまには面倒なことを全部忘れて、温泉にでも浸かってのんびりしてぇじゃねぇか?」
意外なことは続くものだ。またしても予想外な返事。
伊達はご機嫌な様子で焼鳥と冷や酒を交互に口にし、鼻唄まで飛び出してきそうな機嫌のよさと来る。しかも、「そうだろう?」と同意まで促されてしまった。
どう答えたものか。
桐生はおざなりに「まぁな」と呟き、この酔っ払いめと苦笑を漏らした。彼がこんなにも予想外を連発するのは、程よく酔っ払っているからだ。だからこんないつもと違うことを言い出すのだ。そうだ、そうに違いない。
そう思うと、桐生は笑い出したくなるような…でも何処か残念に思うというか、寂しいというか、なんとも複雑な気分を味わった。
正直な話、伊達と一緒に旅行に…と考えないことは無い。行くまでの段取りだとか何だとか、面倒なことがあるのは些か閉口するが、いざ行ったら行ったで、多分どころか十中八九、楽しむだろう予感は大いにある。
だが、問題は至る所に散在するものだ。
たとえば、伊達の言う温泉。公共の場で肌を見せるのは、大いに問題がある。なんだ思春期の少女じゃあるまいし、と揶揄されそうな事柄であるが、桐生の場合は事情が違う。
その背に、厳つい龍を背負った日から、そういう場所とは縁遠くなってしまったのだ。自分が良くても、先方に断られるのが常であり、温泉でも銭湯でもプールでも決まってよく眼にする『刺青の方、お断り』の文字。自ら進んで入れたものであるとはいえ、こうも門前払いが多いと些かうんざりだ。
自業自得だといわれればそれまでだが、しかし、この手の話題が出ると決まって「すまん」と謝らなければならない自分に対する苛々と、それを言われる相手に対する申し訳無さを考えると…どうにも気まずい。
「行くか?」
「…いや、温泉はなぁ……無理だろう」
いつもの決まり文句。本当にうんざりで。
「何でだ?」
「…伊達さん、あんた、俺がどういう人間か忘れちまってねぇか?」
暫しの沈黙。たっぷりと一分はあっただろう。
「………あぁ…そうか…」
ほんのりと目元が赤い伊達は、酔っ払いながらも暫し考え、桐生の言わんとしていることを漸く理解した。コップの底に残った酒を飲み干し、酒臭い息と共にポツリと呟く。
「そうか…ダメなんだな…」
「ああ、悪い」
桐生は彼のコップに酒を注いだ。申し訳なさを表すように、小さく頭を下げながら。
だが、そんな恐縮する桐生の態度に、伊達は面白く無さそうに唇を歪めた。なんだらしくねぇなと、半分閉じかけた眼で睨み返す。これでクダを巻きながら、暴れ出したら酔っ払いの典型だが、伊達の理性は寸前のところで働いてくれたようだ。
「バカ野郎。そんなこと気にすんな。俺が何とかしてやる!」
「なんとかって…どうすんだよ」
「俺の知り合いがな…っても、昔の同僚なんだけどよ。実家が温泉旅館やっててな。鄙びた所にあるんだが…なぁに、頼んだら大丈夫だ。安心しろ」
バンと胸を叩く彼に、桐生は苦笑を浮かべる。気持ちはありがたいが…。
「…それじゃ、相手に迷惑だ。伊達さんの立場もある…」
元とはいえ、刑事だった伊達が今はヤクザとつるんでるなんて、あまり良い様には聞こえないだろう。そこまでしてもらう必用はない。
しかし、酔った伊達は性質が悪くて。
「俺の立場なんて関係ねぇんだよっ!いいか、桐生。極道にだって…オマエにだって、温泉に入る権利がある!…と俺はそう思う。まぁなんだ…背中のことはちょっと忘れればいい…」
俺は見ない、そう言って伊達はガブリと酒を飲んだ。
「……………」
酔っ払いの戯言。第三者が聞けばそれだけのことだが、こうも嬉しく感じるのは、きっと伊達の言葉にはそれ以上の何かが、気付くか気付かないかの微量ではあるものの、混じっているからなのかもしれない。
そう思うのは、惚れた何とか…というものなのだろうか?
そんなことを思う自分の方こそ、予想外なことを考えるものだ。そう思って、桐生はこっそりと笑った。
*2007年初イベントのペーパーより抜粋。具合悪いのに必死だったという思い出は胸の奥にひっそりと…。
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