潮騒
龍司の運転するマークUは、今にもエンコしそうなほどのオンボロだった。かつては真っ白いボディだったのだろうが、いまや見る影も無く薄汚れ、しかも見事なへこみがそこかしこに出来上がっていた。いつも高級外車にしか乗っていない彼が珍しい。
話のネタに「どうしたんだ、この車」と聞くと、下っ端の若いヤツが乗っているのを借りてきたのだと言う。だが桐生には『組長に無理矢理に愛車を奪われる不憫な子分』というシーンが容易に想像できてしまった。こんな男の気紛れに巻き込まれた子分に申し訳なく思う…当然自分も可哀想なのだが。
「GPS付いとったら、プライベートにならんやろが」
「…プライベートね」
時折スピードを上げたり、前を行く法定速度以下で走る車を煽ったりしたけれど、それらを除けば概ね安心して座っていられるドライブであった。
龍司の運転に身を委ね、外の景色を楽しむ。結構寒かったが、窓を少し開けて海風を吸い込むと、違う土地に来たのだと実感出来て心弾んだ。
そしてふと気づく。渋々付き合ったはずなのに、意外と楽しんでいる…そんな自分を自覚し、桐生はしょうがないなと苦い笑みを漏らした。気恥ずかしさで頬が熱くなる。
考えてみれば、こんなにのんびりと旅行するのは久しぶりだ。遥がいる手前、自分独りでふらっと出掛ける訳には行かないし、彼女を連れて行こうにも学校がある。今時の小学生は、なんだかんだと週末にも予定が入り結構忙しい。ヘタしたら、大人である自分より忙しいのかも知れない。だから、こうしてゆっくり羽を伸ばす時間もあまり無かった。
ここは前向きに、良いチャンスだと思うことにした。相手が気になるが、まぁ…そこだけ目をつぶれば、こんなのも悪くは無いなと。そう考えると、心が少しばかり軽くなった。
「海って…具体的な目的地でもあるのか?」
「いや…別に。じゃ、ここら辺でええか」
そんないい加減でいいのかと疑問を抱く。が、本人が良いようなので放っておいた。
やがて広い砂浜が一望できる場所で車は止まった。だだっ広い駐車場には一、二台の車しか止まっていなかった。一、二台も…と言う方がいいのかも知れないが。桐生はこんな時期にこんなところに来る人間が、自分たち以外にもいたことに少なからず驚いた。
「降りろ」と言われ、「寒いのに」とぶつぶつ言いながら車を降りる。まさか泳ぐなんて言い出さないだろうなと心配しつつ、彼は龍司の方を見た。
彼は前方の海を眺めていた。少し目を細め遠くの方を見ている。どんよりとした灰色の空に同じく灰色の海。寄せる波飛沫の白さが目に付いた。どう考えても、目に楽しい風景ではない。夏場の、燦々と照り付ける太陽の下ならばわかるのだが、真冬の人気のない海など見たって面白くも何とも無いだろう。もの寂しいだけだ。けれど、龍司の口角は満足げに上がっていた。何が気に入ったのだろうか。
「満足か?」
我ながら嫌味ったらしいと思ったが、そう聞かずにはおれなくて。だが、そんな嫌味に相手は機嫌を損ねる風でも無く、「…ああ、満足や」と素直に頷いた。これには桐生も驚いて目を見開いてしまった…海風が凍みてしまう。
「今時分じゃ、海水浴ってワケにも行かないだろう…なんでまた…」
「夏場ったって、ワシらじゃ泳げんやろが」
「…まぁ、それもそうだが…」
背中を指され、納得して頷いた。自分たちには、こういった場所で泳げない理由がある。自ら望んで入れたとは言え、こんな時は困りものだ。十八で龍を背負った桐生は、それ以来海水浴や温泉の類に行った記憶が無かった。海で泳ぐと言ったら、服を着たまま何かから逃げるか追うかする時ぐらいで。恐らく龍司も似たようなものだろう。
そんなことを考えながら彼を見ると、同じことを考えたのか「フン」と鼻で笑ってさっさと歩き出した。コンクリートと砂を踏み締めながら、どんどんと先に進んでしまう。内心、車に戻って欲しかったが、どうやら彼にそんな気は無いらしい。「ハァ…」と小さな溜め息を漏らした桐生は、仕方なく彼に続いた。
駐車場から砂浜へと降りる階段で彼は止まった。そして尻が汚れるのもお構い無しに、砂まみれになった階段の一番上の段に腰を下ろす。そしてまた、「アンタも座れ」と命じる。ここまで来て突っぱねるのも無駄な努力というヤツだ。桐生は一人分のスペースを空けて、ゆっくりと腰を下ろした。
波の音が物悲しく響く中、二人は暫し無言であった。ただ何を喋るでもなく、前を向いて座り続ける。そこにはピリピリとした緊張感は微塵も無く、かと言って穏やかな雰囲気が漂っている訳でもなかった。自分の気が済んで機嫌の良い龍司と、諦めムードな桐生と…その温度差が若干その場の空気に溶け込んでいた。
やがて沈黙に耐えられなくなったのか、寒くて参ってしまったのか…多分後者だろう…珍しく桐生から先に口を開いた。
「こんな寂しい海を見たくて来たのか?」
「うん?まぁな…まぁ…海やったら…何でもよかった…」
「何でも?」
「…いっぺんも来たこと無いねん…」
海にと言われ、桐生は一寸驚いた。
今時、海に来たことが無いとは…誰だって一度や二度はあるだろう。自分も親が死に、この世界に入ってからは来ていないけれど、親が存命だった頃なら何度かは来たことがある。死後だって、学生時分は、夏休みに錦山や由美と三人で遊びに行ったものだ。記憶を辿れば、それなりに楽しい想い出の一つや二つは出てくる筈だ。
だが、この男にはそれさえ無いと言う。思い出すのも辛いような記憶の断片は、嫌と言うほど出て来るのに…海で泳いだとか、西瓜割りをしたとか、貝殻を拾ったとか、そんな楽しい記憶は欠片も無いのだと。
彼は淡々とそう言って、すっくと立ち上がった。
「龍司?」
「…何か買うて来る」
指差した方向には自販機が一台。身体も冷えたことだし、温かい飲み物でも買ってくるというつもりらしい。いつもは部下に買いに行かせる彼だが、今日は自ら進んで買いに走った。
珍しいこともあるものだ、彼はそう思った。だがすぐに考え直す。多分この話題を続けるのが嫌になったのかも知れない…桐生は何となくそんな想像をした。
いくら何事に対しても明け透けな態度の彼でも、幼い頃の楽しくない想い出をつらつら並べ立ててもしょうがないと、そう思ったのだろう。そんなことを延々と話しても楽しい方向には向かわないことは、お互いに分かりきっていた。だから喋るのを止めたのだ。
桐生は彼が歩いていく後ろ姿を目で追った。彼の背中をこうしてまじまじと見るのは初めてかも知れない。先程の話の内容からか、彼の背中が何となく寂しそうに見えた。
楽しい海の想い出が無い。言葉にするとえらく簡単だが、実際それを経験している人間を目の当たりにすると、複雑な気分だった。あんな豪胆な男なのに…だからだろうか…より一層不憫さが増した。本人には決して言えない。同情なんて言葉、一番嫌がりそうな相手なのに、その言葉ばかりが頭の中に犇いていた。
幼い頃に母と別れ、引き取られた『父親』は極道だった。だが、例えまともな家庭で育てられていなくても、確かな愛情を持って育てられていれば、もっと違った人生を歩めたかも知れない。海だって、山だって、それなりに楽しい想い出を作れた筈だ。
けれど、龍司には叶わないことだった。愛されていない訳では無かった。が、その『父親』は愛情表現の不得手な男だったのだ。誤解し、誤解され、傷付き、傷付け、それぞれの想いがすれ違うばかりで…金銭的に恵まれても、大きな組織のトップに立っても、決して幸せとは言い難い人生で…。
(俺も親居ないが、あいつが言うほど、良い想い出が無いって訳じゃ無いしな…)
桐生も両親を無くし、これからどうしようと途方に暮れていたが、『ひまわり』という新たな家庭で、風間という男の愛情を注がれて育って来た。そこで新しい家族も出来た。楽しい想い出も作ってくれた。そんな風間の愛情は今でも忘れていない。良い想い出として、結構心に残っている。まともとは言い難い道に足を踏み入れたが、後悔はしていなかった。
同じ道に足を踏み入れ、生い立ちも結構似ている二人。偶然にも、同じ龍を背負っている。でもこんなにも違う。何だか、やるせない気持ちになる。
「なぁ!コーヒーでええんかぁ!」
「ああ、それでいい」
くるりと振り返った彼。自販機の前で大声を上げる彼に、桐生も大きな声で答えた。寂しそうに見えた背中は、もう何処にも見えない。いつもの背中に戻っていた。
やがて彼は飲み物を携えて帰ってきた。二本とも同じ缶コーヒーかと思ったが、何故か片方はミルクティで。当然それは龍司の選択なのだが。
いい歳をしたいかにも筋モノ然とした二人が、仲良く並んで冬の海を眺めている。しかも一方は甘いミルクティなんて飲みながら…これが奇妙で無いと言う人間がいたら、お目に掛かりたいものである。
「こんな時期にサーフィンしてるのがいるぞ…寒いのに」
「ご苦労なこった…この寒い中」
「ああ……寒っ」
ポツリ、ポツリ、と短い会話を交えること、缶コーヒー一本分。語尾に「寒い」のオマケ付きだ。そんなに寒ければ、早いとこ車に戻れば良い。誰でもそう思うだろう。桐生も当然そう思った。
だが何故かしら、「戻ろう」の一言がなかなか出てこなかった。龍司に気を遣ったという訳では無いし、ましてや「このまま二人きりでいたい…」なんて気持ちの悪いことを考えていた訳でも無かった。
饒舌で傲慢な態度の龍司が、黙ったまま大人しく海を見ている姿に、なんとなく同調してしまったと言うか、引き込まれてしまったと言うか…。思う存分、海を満喫すればいい。そんなに居心地の悪さも感じなかったから、暫く付き合ってやってもいいな、そう思って龍司が飽きるのを待つことにした。
結局、二人は冷たい潮風を全身に浴びながら、暫くその場に座り続けた。
桐生の盛大なくしゃみで、沈黙を破る時までずっと…。
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